あとがき

それぞれの国が、それぞれの国の、家族の、彼女の、子孫たちの「平和と幸せ」を求めあい、それがぶつかり合って、起きてしまった戦争。その平和と幸せには本当に、これだけ大量の血が必要だったのだろうか。平和に代償は本当に必要なものなのだろうか。それは、ちがうと心は叫ぶ。戦争なんかせず自国でまかなえるだけの資源で、それぞれの幸せを見つけていったなら、こんな残酷な犠牲はなかったはずだ。

玉砕していった兵隊さんの中には、まだ頬が赤い若者も多くいたそうだ。肉弾切込み、人間機雷、特攻など死が約束された攻撃法で、ことごとくアメリカ軍に飛び込んでいき散っていった。そのとき、彼らは「我が男子、最高の死に場所を得たり」「祖国平和、家族のため」「死んでもなお護国の鬼となって祖国を守ります。」と飛び込んでいった。本当に迷いは無かったのだろうか・・・死にたくない。逃げ出したい。きっと心のうちに声に出せなかった思いがあったのだと思う。家族に会いたい。また仲間と遊びたい。地元のうまい食べ物を食べたい。夢の続きをまた追いたい。今の僕らが渇望する欲求が同じようにあったのだと思う。けど、彼らは目を見開き飛び込んでいった、死神の世界へ。自分が心から守りたい者のために。あの戦争は間違っていたと強く思うが、その戦争を支えた先祖の他愛心には、はかりしれない敬意を僕は忘れず心に持ち続けていかなければと思う。

時代は流れ、日本は物質的な豊かさを手に入れた。物はたやすく捨てられるほど、巷にあふれている。そんな日本で生きる僕らは、本当に幸せだろうか。そんなことはない。心が折れそうになってしまうほどの悲しい事件があとを絶たない。お金があれば一人で生きていける日本で、今はもう国や仕事で奉仕しなければいけない人に対して、自分を犠牲にできる人がどれだけいるのだろうか、誰もが己の幸せを最優先する自己中心的な思考になってしまっている。もちろん僕もふくめて。

物の豊かさだけでは、人と人は幸せにはなれない。むしろそれが幸せを邪魔しているようにも思う。戦争が一番のいい例だ。戦争は他国の資源を手に入れようとする行為の表れだと思う。日本の戦国時代の領土拡大やアフリカの植民地などなど、物欲に心を支配され、気づかぬうちに他人の幸せをつぶしている過去を人は数えきれないほど繰り返している。人間は人様のものを奪う習性があるのかな。そんなこと絶対にしちゃいかん!と大人たちは堂々と子どもたちに言う。けど、その大人たちは平気で紙を無駄遣いしている。その紙はフィリピンのとある島の木からできていることを知らず。そのお蔭で島の森が消え、森の恵みで生きていた民も消えて行ってしまったことを知らずに。「お金を払って買ったんだから、どう使おうと私の勝手だ。」そんな心が見え隠れしている。

目の前で広がる残酷な血戦は今の日本にはなく平和ボケしてるなんていわれているけど、今もなお資源の奪いあいをしていると僕は思う。誰もが悲しむ悲惨な死が見えないようになっているだけで、お金という血を流さないで済む武器で途上国の自然を搾取している。他国の自然を奪い取る戦争は今もなお続いている。

だから僕はこれからも、種を植え、薪を割り、ゴミで家を建てていくだろう。自分たちに本当に必要なものは、極力自分たちで作っていきたい。家族単位だと完璧にはきっとできないだろう。でも自分たちのできることから行動し始めていきたい。一つひとつできることから。「100のことができないなら、やってもしょうがないよ。一人がやっても何も変わりはしない。」そんなことを言う人間にはなりたくない。たとえ100のうち一つでもやれることがあるなら、それを精一杯やり続ける親父になっていきたい。

「父ちゃん。うちはなんでこんな暮らしをしているの」

いつか、我が子に質問されたとき、胸をはって今まで書いてきたことを話すだろう。つつましく、シンプルに家族の幸せをじっくりとゆっくりとこれから築いていこう。幸せの原点をもとめて。

僕らの身のまわりに溢れているものは、すべて自然から作られたものばかりだ。放射能がまき散らされ、森林破壊が進み、海洋への汚染物質の流入はとどまることを知らない。自然が世界中で壊れ始めていると、きっと誰もが心のうちに思っていることだろう。そして、その自然破壊が人間によって生み出されているという目を背けたい真実も世に広く浸透している。


自然は、一度壊れても再び息を吹き返す。ペリリュー島の森と海が、そのことを教えてくれた。このペリリューの生きものたちが、どんなことがあっても生きることをやめないように、僕ら人もまたあきらめず変化していくことは可能だ。人もまた彼らと同じ生きものなのだから。僕らの暮らし方ひとつで未来の自然は必ずかわっていく。

70年でここまでダイナミックな自然を取り戻したこの島は無言で僕に云う。



やればできるよ。